野宿の三段活用。

若い人たちのなかにはテント泊よりも野宿のほうが好きなひとも意外に多い。
野営と野宿は違う気がします。

野営は、野宿に較べてまだ条件がよいイメージ。
テントを張ってプライベートな環境をかなり確保できて、雨露もじゅうぶんしのげる。

野宿は、場合によっては着の身着のままで、とりあえず寝るのになんとかなるプライベートな空間を探して、あたかもそこの一部になりきってとりあえず朝を寝て待つ。
でも、なにか突発的な事態に備えて熟睡の域には達することがなかなかむずかしい、という感じでしょうか。

野宿には3つのパターンがあると思えます。

1 緊急避難的野宿。
なーんにももっていませんが、日が暮れてこれ以上の行動は危険あるいは交通機関などの制限によって無理、ってときにアタフタとその日の寝る場所を探す。

2 「まーいいや」的野宿。
そもそもその日の行程自体がなんとなく無理っぽいのに、突っ込んでやっぱり野宿。
でも野宿の心構えだけはなんとなくできていたので、日暮れ前には心の中で「あそこに泊まろう」という目星をつけられ、トイレや水の場所、そして食糧さえも確保できている。
なかには野宿を楽しむためにこういう状況をわざと招く人もいる。

3 戦略的野宿。
軽量化のためにテントは使わない。または安く泊まることができる宿やキャンプ場がないために、旅の計画段階から野宿できる場所を当て込んでいる。

遵法的な見地において、いまや野宿はグレーゾーンになりました。
昔はかなり大目に見られていましたが、とくに、オウム真理教事件のあとは地方でも野宿していると通報されることが激増しましたし、おまわりさんの巡回が厳しくなって誰何されることも増えました。

しかし、いっぽうで辻まこと著「多摩川探検隊」に記してあるように、野宿になるかなるまいか、の子どもに対して「大したものだ」という評価が下されることもなきにしもあらず、か…
あのいやな事件から時間が経ち、野宿に関しては苦笑とともに大目にみていただける場合がふたたび増えてきている気がします。
しかし、野宿がその地域の方々に大目にみられる「ことがあっても」、野宿が市民権を得ていると考え違いしてはなりません。
とにかく野宿は、地元の人に迷惑をかけないことに尽きます。
ゴミを残したり公衆便所以外のところで排泄をしないことはもちろん、野宿した地が人家に近いときには迷惑にならぬよう、静かにこっそり夜を過ごします。
朝は地元の人たちよりも早く起きて、野宿した痕跡すら残さないで旅立つ気配りが大切です。
野宿においては立ち居振る舞いに凛とした心構えが必要で、それが自分の身の安全と将来にわたる野宿へのお目つぶりにつながるのです。

自分としては、子どもたちには一度でもいいから野宿を体験してほしいと思っています。
当たり前のように蛇口からお湯が出る、あったかいお布団があることが、どんなに「ありがたい」ことか、よくわかるからです。