2014年2月6日木曜日

祈る、または拝む、または手を合わせる子どもたち。

はじめに。
以下の内容は信仰や宗教に対する大人ならではの価値観をちょっと脇においてお読みいただけるとうれしいです。

山中では小さな祠に出会ったり、郊外では石仏さんに出会ったりすることがよくあります。
そういうとき、意外なことに子どもたちは手を合わせていたりします。
(もちろん、素通りしていることもよくあります。)
お宅から仏壇や神棚が消えつつある今の時代、その姿に感心していざ写真に撮っておこうとカメラを出すと、手を合わせている「決定的瞬間」はだいたい逃します(笑)。

少し考えてみると、例えば初詣などで子どもたちが手を合わせるのはごくありふれた光景ですね。
私たちが合掌するときの心中を私なりにざっくりと3つに分類してみました。
祈る(信用・安心など) → なにかの心願をかけて頼む。
拝む(畏敬・衝動など) → 尊いものを感じて無償で敬い拝する。
手を合わせる(儀礼・定型など) → 無心。すぐれて平常心。あるいは形式。

この3つのなかで、私が見る合掌中の子どもたちの心中は「拝む」と「手を合わせる」が入り交じった場合が多い気がします。

祠や仏様を見つけてパパパーっと走っていって合掌。
祠や仏様がまた見つかったら「シリーズとして」合掌(笑)。
一日の最後になるだろうというときには意外に神妙に合掌。

おおかた、そんなことが多いでしょう。
でも、ときにはスカーッとした気配を放つ社寺や、やさしいお顔をした仏様をまじまじと見て、手を合わすということもあります。
子どもたちの小さな畏敬の対象になるからには自ずと尊さが備わっていて、また人々が長い間にわたって信心するとその想いがその対象に宿る。そういうサイクルがぐるぐると続いて、子どもたちにもおそらく本能的にわかるんでしょうね。

自然のなかで遊ぶと、そうしたセンスが磨かれると思います。
子どもたちには尊いもの(善であるもの)を直観的に見いだせる力がつくようにと願っていますし、合掌する心持ちをいつまでも大切にしてほしいな、と願っています。